『北一輝』(渡辺京二、ちくま文庫)

『逝きし世の面影』などの著作や、石牟礼美智子を世に出したことでも知られる在野の思想史家・渡辺京二による評伝である。

【概要】

明治~昭和前期の国家社会主義者・北一輝の生涯を、眼病に悩まされながら故郷佐渡で過ごした少年期、佐渡新聞で筆を振るいやがて上京して『国体論及び純正社会主義』を世に問うた青年期、中国革命へと接近し『支那革命外史』を著すとともに、政治運動家としての色彩を強めていく壮年期、そして『日本改造法案大綱』を著し、右翼の大物として様々な権略を巡らすも二・二六事件連座して処刑される晩年期まで、その生涯と北の思想の変遷を11章立てで辿っていく。

 

教科書的な理解としては、北一輝二・二六事件を起こした皇道派青年将校の思想的指導者とされている。皇居を占拠し、天皇を擁してクーデターを断行、政権を掌握しようとしたファシストとして“魔王”という異称で呼ばれることもある。

しかし、本書では中国より帰国後、二・二六事件に至る北の晩年期は最後の第十一章のみで語られ、著者がここに力点を置いていないことが分かる。

著者による北の評価は“「日本コミューン主義者」として第二維新革命のテーマにもっとも近代的、かつもっともよくできた解を提出した”思想家というものであり、その思想の成果は北が若冠23歳の時に書き上げた『国体論及び純正社会主義』にこそあるという。その評価の高さは、本書の第四~六章までを割いてその分析と検討が行われていることからも、また第四章の冒頭で、

 

“『国体論及び純正社会主義』は日本の近代政治思想上、まず五指に屈すべき著作であろう。われわれが、個ー共同体ー国家ー世界という、日本の近代政治史を貫通する問題連関、今日なお十分に解かれきってはいない難問について、たんなる文献学的関心ではなく、生きているがゆえに思考せざるをえない人間として関心を寄せるとき、明治・大正・昭和の三代にわたる厖大な政治思想的著作のうち、精魂をこめてとりくむに値するものはそんなに多くはない。北のこの著作はそういう数少ないもののひとつで、彼がこの国の近代政治思想上もっとも重要な人物のひとりであるのは、ただこの本の著者であるためである。私の考えでは『国体論及び純正社会主義』は思想家北のすべてである。『支那革命外史』も一個の名著であり、『日本改造法案大綱』もまた問題的な文書であるにちがいないが、北の政治思想家としての本質的な意味は、この一冊にすべて含まれている。”

 

と激賞していることからも明らかであろう。

検閲をクリアするため、敢えて意味を取りにくい難解に書かれた北の文章を、先行研究者を片っ端から批判しつつ読み解いていく過程は迫力さえ感じる。

そして導き出される北思想の核心=第二革命の論理は、明治維新を理念の上では民主革命であり、それによって成立した明治国家も、憲法に述べられた理念上は社会主義国家である(あるべき)と捉え、政治は藩閥政府に牛耳られ、西洋から輸入された個人主義によって人々が利己的に振る舞う現状を改め、本来の維新の完成を目指す社会主義革命=第二革命の必要性を説く。

そこでは、明治以降の天皇制を王として君臨した古代天皇制とは区別し、国家の必要から“擁立された”天皇とする、いわば天皇機関説を唱えている。「天皇のための国家」ではなく「国家のための天皇」であるというのだ。さらにいえば、以上の理由から天皇制の存廃は国民が必要とするか否かによるとされ、その廃止の可能性すら含んだ論となっている。二・二六事件のイメージから、北を天皇制の絶対信奉者と思い込んでいたが、本書によれば、実際は北の中に天皇への尊崇の念は稀薄だったといっていい。

 

天皇よ、錯覚するな、と彼はいいたいのだ。汝は維新前には、神主の大なるものにすぎなかったではないか。誰のおかげで、民主国日本の天皇になれたのだ。分を知らねばならぬ。汝の特権は、国家が必要と認めて付与してやっただけだ。だからといって、国民を自己の臣民視するならば、汝はただちに国家の反逆者となることを銘記せよ。”

 

これが、北が天皇制に抱いていた本心であったと著者はいう。

 

北の第二革命の論理の背景にあったものは何か?

それは明治維新によって西洋から輸入され、都市部を中心に構築されてきた近代市民社会への、基層民たちの違和感であったというのが著者の分析である。それまで人々が根差していた地域共同体が徐々に解体され、それぞれが個々の権利と利益を追求する社会を北は維新革命の成果とは認めず、全ての人民が一つの有機体として社会を形成し、個人の利益ではなく社会の利益のために生きるべきと考えた。

当時、一つの民族が一つの国家を形成するという国民国家の概念が生まれ、北も多分にその影響を受けた。日本の人民が一つになった有機運命共同体としての社会は、そのまま国家とイコールである。つまり国民も天皇も、「国家」のために奉仕する国家社会主義へと北の思想はたどり着いたのである。

 

この『国体論及び純正社会主義』は、当然のことながら出版後すぐに発禁処分となる。

その後北は中国で高まっていた革命運動の機運に傾倒し、自身も中国に渡る。そしてこの支那渡航を機に、社会思想家から政治運動家へとその活動の軸足を移していく。北の代表的な著作として知られる『支那革命外史』は日本の取るべき対支政策を述べたものだし、『日本改造法案大綱』は第二革命後の憲法草案たるべく書かれたもので、いずれも思想の深化ではなく思想の実践のための書であった。

著者はこの2冊の分析も鮮やかに記しているが、北がそのコミュニズム思想の深化の方向へ向かわなかったことを、心から惜しんでいることが伝わる。

著者から見た北は23歳の時をピークに、その輝きは徐々に失われていくのであろう。

国体論及び純正社会主義』刊行後の反響を記した第七章の一節で、経済史家福田徳三の絶賛と今後への激励を引いたあとでこのように書いている。

 

“だが北は、こののち遂に福田の熱望をみたすことがなかった。彼は二度と『国体論及び純正社会主義』のような理論的な仕事を試みなかったし、その思想の質を深めることもしなかった。”

 

【感想】

二・二六事件北一輝しか知らなかった私にとっては、それ以前の北一輝の活動は新鮮で、彼の波乱の生涯を面白く読んだ。

 

著書の分析、特に『国体論及び純正社会主義』のくだりは、予備知識の無い身には難解で、著者の言わんとしたことを全て理解できた自信はないが、全体主義個人主義によって分断が進む現代にあって共同体主義は忘れ去られていた切り口ではないかと思った。もちろん、人々が近代的“個”に目覚め、技術の進歩により地理的距離の遠近が大きな壁では無くなった今日、むかしながらの“地域共同体”をその中心に据えるのは無理があるだろうが。

 

あとは、著者が先行の北一輝論を、容赦なく批判していく様が強烈だった。ここまで先行研究を否定している文章は見たことない。

著者は水俣病抗議運動にも参加していた市民運動家の側面も持っている。革命家、活動家としての北一輝の心理を自分こそが理解している、という自負があったのではないか。支那から帰国後の北の金遣いについての一文で“戦後進歩主義極楽とんぼたち”の無理解を嘲笑するようなところは、その現れのように思った。

 

『破船』(吉村昭、新潮文庫)

【概要】

舞台は、ある海浜の寒村である。確たる地名は記されていないが、“尾花蛸”の漁獲、村の沖合いを通る商船の方向、寒気と積雪の激しい冬の描写などから佐渡の南部のどこかだと思われる。

時代は江戸期。

伊作は9歳。この僅か17戸の村で、両親と三人の弟妹と暮らしている。眼前の入江での漁獲と、背後の山裾を僅かに切り開いた畑の作物、山で採れる山菜などで賄われる生活は厳しく、頑健な父は3年の年季奉公で港町へ買われていった。

長男の伊作は、まだ少年ながら一家の中心的な働き手として、大人に準ずる役割を担うことになる。

物語は、この年季奉公から父が戻るまでの3年の歳月を、伊作の目を通して描く。

 

一年目は、伊作が少年の身体を振り絞り、労働を通して村社会で、家庭で、一人前としての役割をこなそうとする様とともに、北陸の片隅にある漁村での営みが四季の移ろいに沿って描かれる。

村の背後の山の頂き付近が紅葉を始めると、村人たちは秋が訪れてきたことを知る。海では尾花蛸が磯に寄せてくる。

紅葉が村まで達する頃、蛸は磯から離れていく。

紅葉が終わり、葉が落ちて冬が訪れると海が荒れる日が多くなる。浜では塩焼きが始まる。裏山から冬季の暖をとるため、薪を集める。やがて雪が降り、村は雪におおわれる。

山で梅の花が咲き始めるのが春の訪れを告げる兆しだ。浜での塩焼きは終わり雪解けが始まると、山路を越えて隣村まで塩を売りに行く。

3月になると回遊してきた鰯漁が始まる。年季奉公の者たちが売られていくのもこの時期である。鰯の魚影が薄くなると、烏賊がやって来る。烏賊は干してスルメとなり、隣村で穀物と換えられる。

梅雨に入ると、村の最大の漁であるさんま漁が始まり7月まで続く。さんまが北に去ると、塩漬けのさんまを隣村に売りにいき穀物に換える。

盆が過ぎると暑さは徐々に和らぎ、さらに一月ほど経つと、磯で尾花蛸がかかり始める。

このように眼前の海と背後の山の変化に規定されながら、村の営みは続いていく。

 

この村の規則的な営みはしかし、苛酷な自然環境のためじり貧的に収支はマイナスに傾き、年季奉公で一時的な収入を得たり、伊作のような児童の労働を必然としている。

こうした状況を好転させうるのが、“お船様”の訪れである。

海の荒れる日が多い秋から冬、浜で夜通し塩焼きの火を炊き、海上を交通する商船が風を避けようと湾内に入ってくるよう誘う。湾内には岩礁が広がっており、そこに座礁させて積み荷を奪うのが、“お船様”の実態である。船の規模にもよるが、お船様の到来から数年は村は貧苦から逃れられるのである。

作中では最初の年、伊作は初めて塩焼きの火の番を命じられ、その意味するところを知る。この年は結局“お船様”の訪れはなかったが、翌年多くの米俵を積んだ商船が“お船様”となり、村は沸き立つ。米俵は人頭割で家々に分配され、大人2人(伊作、母)、子供2人(弟、妹)の伊作の家にも8俵が与えられた。これは数年分の米の備蓄であり、飢餓の恐怖からの解放を意味していた。

そして翌年、新たな“お船様”が村にやって来る。ふた冬続けての到来に伊作も村人も色めき立つが、その船の乗員は全て死に絶え、食糧も尽き、空の米櫃を除いては積み荷も調度品も無い老朽船だった。それでも村人は、死んでいた乗員たちが着ていた赤い衣服を剥ぎ取り、老若の女たちに分配した。

この船が村に大きな災厄をもたらし、冬から春までの間に多くの村人が死んだ。そして生き残った者たちにも、村長の非常の決断によってさらなる悲劇がもたらされる。

すべてが終わり、生き残った伊作は春、漁に出た海上から父親が山道を下り村に帰ってきたのを見つける。その伊作の悲嘆の姿を描いて物語は締め括られる。

“かれは、父の悲嘆を眼にしたくなかった。このまま沖に舟を向け、潮にのって遠い所へでも行ってしまいたかった。

体から力がぬけ、頭の中が空白になった。為体の知れぬ叫び声が、口からふき出た。

かれは、櫓をとると舟を浜の方向に進めていった。”

 

【感想】

読み始める前は“お船様”というおぞましい因習と、業深い村への天罰のように襲いかかる災厄を描いた陰惨な物語を想像していた。

しかし、そこに描かれていたのは厳しい地理的制約の中で、知恵を振り絞って生きる村人たちの姿であった。自らが生き抜くために、時には非情の決断も下さざるをえぬ彼らだが、けして非人間的な冷血な集団ではなく、家族への愛情、同世代の者同士の友情や恋愛感情を持ち、村という共同体への奉仕によって団結している「普通の人々」であった。

お船様”も、もとはそんな彼らの非情の決断によって始まったものだろう。難破した船への略奪と船員の殺害、証拠の隠滅は長年の経験によってマニュアル化されているようで、“差配役”と称される識見豊かな村人の指揮のもと、実に手際よく行われる。足腰の立つ村人全員が参加して行われるこの行為に、誰一人良心の呵責を感じず、むしろ突然の富の到来に喜びを溢れさす様は、彼らが倫理観を欠いたおぞましい集団であるように見える。

だが“お船様”による災厄に襲われた村で、村長は自らと共に多くの村人を犠牲にしてこの事態を鎮める決断をするのだが、この時、より犠牲が少なくなる選択肢を知りつつ“他の地の人に迷惑をかけてはならぬ”と峻拒している。この村長の“他の地”への配慮は優れて倫理的な判断である。災厄は他村から船に乗ってやって来たのだが、そこからさらに災厄が連鎖することを自村の犠牲で防ごうというのである。

こうした倫理的行動の背後には“お船様”という決して他には漏らせない非道の行為をしているという自覚があり、いつか報いを受けることになるという恐れと覚悟が、無意識に形成されていたのではないか。

物語は伊作の眼を通して語られるため、彼以外の感情の動きは直接語られない。伊作は“お船様”の実態を知ったあともそこに疑問を抱かず、無邪気に“お船様”がもたらす富の来訪に期待していた。

しかし大人たちはどうであろう。そもそも難破船への略奪行為を“お船様”と尊称し、訪れを祈念する神事を作ってそれを天の恵みのように演出すること事態が、非道の行為に対するやましさの現れだろう。村長により犠牲者のうちに入れられた伊作の母が、どこか達観したかのように穏やかに最後の時間を過ごしていたのも、非道をしなければ生き延びられない生活から解放されるという安堵感による所も大きいのではないか。

伊作と大人たちの違いは、外の世界を知っているかどうかである。海から得た漁獲物を、浜で焼いた塩を、季節ごとに村人たちは泊まりがけで隣村へと運び米穀と換えてくる。一人前の労働力として数えられている伊作たち少年だが、この運搬作業は重い荷を背負い急峻な峠を越える重労働で、身体のできあがった大人たちしか行えないことは作中にも描かれている。隣村は港町で、旅客用の宿や年期奉公を斡旋する商家もあることから、地域経済の中心地であり他地域からも人や物が集まってくる交易地であるとイメージできる。また、労働力として年期奉公に出た場合は、隣村よりさらに大きな町へ赴くことになる。そうした経験を積み重ねた大人たちは、自らの村で行われている“お船様”が、いかに異常で許されざる習俗かを知っているのである。

 

物語は、伊作が父を迎えようと浜に舟を漕ぎだすところで終わる。この後、多くの村人を失ったこの村は、伊作たちはどうなっていくのか。

以前と同じように過酷な自然と向き合いながら、“お船様”という僥倖を待ちわびながら生きていったのか。それとも父とともに村を出て、新たな土地を探したのか。あるいは村ごと新天地を求めて移住していったかもしれない。

いずれにしても、伊作もやがて一段広い世界を知り、“お船様”という行いの異常さに気づく時がくるのだ。

細部まで描き出された彼らの生活の貧苦を読むことで、この村にとって“お船様”が必要不可欠な行為であることを読者は思い知る。それは「その後」への楽観的な想像を許さない。